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 イノセンス
     
 高木一行氏は舞手である。
 たぐい稀なる舞手、と呼ぶのがふさわしいかもしれないと、舞については門外漢の筆者自身は常々感じてきた。
 
 その高木氏の舞は、単なる舞で終わらないという点でも極めて独創的だ。
 例えば、舞の動きが即座に強力な武術のわざとなるのである。
 体力にいささか自信がある筆者は(無謀にも)氏に全力で挑みかかっていって、吹っ飛ばされたり、一体何をされたのかすらわからないまま床に転がされたり、あるいは全身の力をすーっと抜かれてへなへなっと床に崩れ落ちたり、何とも不可解で神秘的とすらいえる威力をいくどもわが身で実体験したことがある。
 そんな時、優美に舞うように動く高木氏の体にはまったく力が入っているように感じられないのだから、より一層不思議だ。 

 舞い姿がただちに武術となるのとまったく同じように、舞の動きを創作方面へと向ければ、自ずから芸術作品が生まれてくると高木氏は言う。
 2015年の年末から2016年の年始にかけての数日間、「近所のスーパーで買ってきた画材を使って、戯れに」描いたという一連のアート作品を、今回、他に先駆けて個人的に拝見する機会を得た。

 ひとめみて、「うわっ」と思わず声が出る。こういう感動は久しぶりかもしれない。
 無念無想の境地から自然にあらわれる舞の動きをただ紙の上に映しただけ、そんな風に作者本人はさりげなく言うのだが、素人が適当になぐりがきすれば勝手にできあがるものではもちろんないし、画業の専門的訓練を積んだ者であってもこういう線を描くのは至難のわざなのだ。
 次のように述べることは高木氏にとってもしかすると不快かもしれないが、私が直感的に感じたことを率直に記すならば、これらの作品は宗教芸術に最も近いのではないか。
 あるいは、瞑想の訓練を長年積んだ高僧によって描かれてきた禅画の伝統が、誰も想像しなかった斬新な形でこの21世紀に、僧院の壁の外で突然鮮やかな花を咲かせた、とでもいおうか。

 ポスターカラー・マーカーを手にして白紙のスケッチブックと向き合う時、高木氏は何かを描こうという意図すら持たず、何が描かれているのかと形を目で追ってゆくこともしないそうだ。もし目でみて確認しようとするとそこで流れが止まってしまって、作品に生命が吹き込まれないまま中途半端なものが残されるという。
 それでは“一体誰が描いているのか”、という疑問が当然起こってくるわけだが、神秘という言葉を滅多に使うことはない筆者も、高木氏のアート作品にはどうしても神秘性を感じてしまう。これは、氏の武術を実際に体験するたびに味わってきた神秘感と本質的に同一のものかもしれない。

 とにもかくにも。
 天真爛漫というか純粋無垢というべきか。
 まさに、遊びをせんとや生まれけむ。戯れせんとや生まれけむ。
 そしてその人は、みまもる者が胸を激しく揺さぶられざるを得ないほど、この上なく真剣に、どこまでも徹底して誠実に、遊び、戯れるのだ。
 世界そのものと。

 現代日本のような社会にあって、そうした芸術の本質に迫る生き方を貫こうとするのは、当然容易なことではない。
 想像を絶する努力が、それも絶え間のない努力が、必要であるに違いない。
 そうやって長年に渡って努力し続けてきたことも、他者に対する底抜けの善意も実践も、国家という強大な存在からことごとく否定され、無惨に踏みにじられ、それでもなお、この人の内面性はなにゆえにかくもシンプルで明朗で、神秘の輝きに満たされていることが可能なのか。
 あたかも、外側の世界のいかなるものも、高木一行という人間の内面にある魂の輝きを損なうことはできないかのようだ。
 その絶対不可侵なる魂の聖域を、古人は金剛(ダイヤモンド)に喩えたのだろう。
 高木氏自身は、それを「龍宮」と呼んでいる。

 ひとつひとつの作品をみてゆくうちに、一つの言葉が繰り返し浮かんできた。
 イノセンス。
 高木氏の新作シリーズのエッセンスが、この一語に凝縮されている。
 イノセンス。
 そしてイノセンスには、純一無雑という意味と同時に、無罪という意味もある。

 

庄司雅之(美術評論家)
 

INNOCENCE

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