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ヒーリング・セックス

 夫とともに探求してきた、<エソテリック・セックス>は日々、進化・発展を遂げ、<ヒーリング・セックス>という体系へと結晶化してゆきました。 今回は、夫・高木一行のヒーリング・ディスコース『ヒーリング随感』の記事より、<ヒーリング・セックス>と題された一章をご紹介します。

 

 →元のページ:高木一行『ヒーリング随感 第6回 ヒーリング・セックス』

 

 

◎ヒーリング・アーツの原理に基づき、セックスを愛の芸術へと変容させる道、それがヒーリング・セックスだ。 性(セックス)は普通、侮蔑・嘲笑の雑多なヴァイブレーションや、禁止・抑圧の重苦しさとともに、私たちの裡に入り込んでくる。神聖さ、荘厳さ、美しさの感覚に基づいてセックスが教えられ、導かれた体験を持つ人は、読者諸氏の中にはほとんどいらっしゃらないかもしれない。 性のエネルギーに対して、いかなる抑圧も耽溺もなしに、あたかも猛火の中に裸で飛び込むようにヴァルネラブル(無防備)である時、人はセックスを神聖と感じる。

◎以下は、ヒーリング・セックスの入門修法を学んで熱心に実践した一女性の体験記だ(抜粋)。

 

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 私は初めてセックスを知ってから、セックスに魅力を感じることができずにいました。そんなことを話したら恋人に嫌われてしまうのではないかと思って打ち明けることもできず、結婚後もずっと消極的なセックスを繰り返していました。しだいにセックスを求められると身体が硬く緊張してしまい、触れられることが苦痛に感じられるようになって、自分でもおかしいんじゃないかと思いました。私も普通の人のようにセックスを楽しみたいと切実に思い続けてきました。ヒーリング・セックスについて夫から聞かされた時はとても興味をひかれ、これまでずっとセックスについて悩んでいた私にとっては、まさに救いの手が差し出されたかのように感じられました。自分の求めているなにかが見つけられるような気がして、変われるかもしれない、変えられるのではないかという大きな期待と可能性を感じ、ヒーリング・セックスの体験レッスンに夫婦で参加することとなったのでした。

 体験レッスンでは、繊細に優しく愛しさを込めてお互いに触れ合っていく気持ち良さや、蕩(とろ)けるような口づけに安心感にも似た心地よさを感じ、これまでのセックスでは体験したことのない「気持ち良さに心と身体が緩んでいく」という感覚を初めて知りました。こんな気持ち良さがあったなんて・・・と感激しました。

 しかし、気持ちよさに身体が緩もうとすることに、かたくなに抵抗しようとする自分の硬さも強烈に感じました。どうして私はこんななんだろう・・・と思えば思うほど、両親との関係、セックスをいやらしいものと否定する自分、過去の苦痛に満ちた記憶などがよみがえり、締め付けられるかのように苦しくなるのです。私は、そこから抜け出せずに甘えている弱い自分を変えたい、夫との愛を深めていきたいと真剣に思いました。

 体験レッスンで教えていただいた、小さな鏡に自分の性器を映しながら行なう言霊瞑想(ことだまめいそう)を自宅で実践してみると、鏡に映る性器に向かって「汚い」とか「恥ずかしい」とささやいたときは、性器を中心に硬く閉じていくような重苦しさを感じるのに対して、「美しい」と何度も繰り返しささやきかけていくと、性器周辺がふわりと気持ちよく緩んでいき、世界が変わったかのように清々しく開放的になるのでびっくりしました。しばらく行なった後、鏡を置いて立ち上がり2度驚きました。性器の緊張がすっかり緩んでいて、膣の奥のほうまで広がるふわふわとした感覚がとても気持ちいいのです。私は立ったままの姿勢で性器の内側に広がる気持ち良さを楽しみました。楽しむということもこれまでのセックスでは全く無かったことだったので、これも私にとっては嬉しい驚きでした。なんて凄いんだろう!と、自分が変化していくのを感じてとても嬉しく思いました。

 言霊瞑想を実践していくうちに、性に対する否定的な感情は徐々に消えて、「美しい」という言葉のヴァイブレーションが持つ心地よさに身も心もいやされていきました。新たな生命を迎え入れ、この世に送り出す扉である性器を、美しく神聖だと思えるようになると、自分自身の存在までもが神聖さを帯び、毎日がとても清々しくて開放的で、生きている歓びを感じられるようになりました。夫との関係は、ついこの前まで倦怠期に陥っていたとは思えないほど親密になっていき、セックスが直ちに愛の行為へと変容していきました。

 以前の私は、いつも寂しくて、何かもの足りなくて、息苦しくて、ずっしりと重苦しくて、健康で若々しいという感覚とはまったく無縁で、潤いは無く、枯れて干からびているような感覚をいつも感じていました。私はてっきり自分は身体が弱いのだとばかり思い込んでいましたが、そのような症状は自分自身で作り出していたのだということに気付くことができました。私は両親のセックスを通じて人間としての生を享け、セックスは生命力そのものの発露であるわけですから、性を否定し、抑圧することは、自分自身の生命力を否定することになってしまいます。さらに、性に対する否定的な感情は、自分の子供にまで影響を及ぼしていくのだと気づいたときは、ハッとしました。それはまさに私が母から受けた苦しみだったからです。なんと恐ろしいことをしていたのかと分かり、本当に申し訳なくて、声をあげて泣くことを止められませんでした。「いいよ、ゆるしてあげる」と当時4歳だった娘が無心に口にした言葉に、心の奥底から救われたことを今でも忘れられません。

 その直後に母から電話があって、私が産まれた時のことを嬉しそうに話してくれたときは、心の中でずっと憎んできた母に対して、私を産んでくれたことを素直に感謝することができたのでした。凄い!・・・すべてがつながっている・・・いやされていく・・・と感動しました。

 体験レッスンに参加し、教わったことを実践していくにつれて、こんなにも変わり、いやされるなんて!と、ヒーリング・セックスの素晴らしさ奥深さを実感し、さらに深く学んでいきたいと強く思いました。<R.I. 大阪府>

 

◎セックス中枢が開かれなければ、私たちの人生が歓びの質を帯びることは決してない。 私が語っているのは、活力のことにほかならない。誰もが渇望する活力とは、実は性エネルギーの一形態なのだ。観察したことがあるだろうか? 人が活力を感じている時には、一種の性感を同時に味わっている。

 セックスのエネルギーと活力とを切り離すことはできない。だから、セックスをうしろめたく思い、批判し、抑圧し、目を背ける人間は、決して真の活力に満たされることはないし、中途半端な活力でさえそれを長く維持することができない。

◎女の性感と男の性感、性感にはこの2種類がある。両者は質、方向ともに正反対だ。そして男も女も、2種類の相反する性感を味わう能力を生まれながらに備えている。 男性的(能動的)性感をレット・オフすれば、受動的な女性の性感が顕(あら)われる。その逆も同様だ。

◎性感は、啓発や創造性の原質(プリマ・マテリア)でもある。 創造的感覚と性感とが、自らの内的実感として響き合わず、結びつかないという人は多いかも知れない。確かに、一見するとそれらはまったく別のものに見える。無限に拡がる霊的洞察の繊細な輝きと軽やかさに比べ、セックス・センスはもっとドロドロして重く緩やかだ。それを悪いもの、恥ずかしいもの、隠すべきものと考えると、股(もも)を閉じ合わせようとするような緊張が無意識下で生じ、骨盤を閉ざし、固める。呼吸も浅くなる。

◎セックスが昇華(固体が液体を経ずに直接気体となる)される時、ヒーリング・アーツ流にいうとセックスが粒子的にほどかれる時、創造性が顕われる。

 

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 エソテリック・セックスやヒーリング・セックスの探求を始める前の私は、セックスによる感覚、気持ちよさが非常に浅く、一応、オーガズムはあるものの、今と比べるとほとんどなきに等しいものでした。それでも、普通にセックスはしていたのですから、当時における「一般の若い女性」の通常レベルだったとは思います。

 しかし性の抑圧、性を否定する自分自身のこだわり、心理的な状態と対応した肉体のブロックを解いてゆく過程で、ブロックがほどかれればほどかれるほど、性感はとどまるところを知らずに増大してゆくという現象を体験し、それは今も留まるところを知らずに発展しているのです。

 おそらく、86歳でも現役で「女性のための性の解放ワーク」に取り組んでいるアメリカのカリスマ女性、ベティ・ダッドソンなどは、年齢を重ねるほどに性感が拡大していっているに違いありません。

「より強く、速く、激しく」という能動的、男性的な刺激の仕方だけでなく、ヒーリング・タッチを基本とした「ゆっくり、柔らかく、粒子的に」という、受動的な女性性を基本とした触れ合いが、ヒーリング・セックスには欠かせません。

 女性性と男性性、受動性と能動性が、バランスよく備わってこそ、セックスにおいて「ヒーリング」が起こるわけです。そして深い愛の触れ合いによるエクスタシーには、「いやらしさ」や「恥ずかしさ」などの否定的感覚が微塵もなく、ただ限りない美しさ、神聖さだけがあるのです。

 

 

 我らは、歓喜と感謝に満たされる!!!  

2015.10.09 文/高木美佳

 龍宮館の新しい仲間、クレステッド・ゲッコーの赤ちゃん、ハッピー・エンド。

 コオロギを食べているところ。

 

 夫の控訴審初公判の日に、大阪から龍宮館へ迎えました。

 

 1週間ほどたち、最近のハッピー・エンドは、何だか体がむっちり、プリプリふくらんできたように観[み]えます。

 

 最初は頭だけが大きかったのに、体もしっかり肉がついてきました。

 

 しかし下の写真と比べると、ハッピー・エンドがしがみついている黒い温度センサーは、人間の指と比べるとこんなに小さいのです(センサー自体は同じもの)。

 

 ハッピー・エンドがどれほど小さいか、おわかりいただけるでしょう。

 

 最初クレステッド・ゲッコーを迎えることに決めた時は、「ベビーから少し成長した子供くらいの安心サイズ」を想定していたのですが、お店に入荷したのがちょうどベビーだったのです。「安心サイズ」というのは、飼育するのがそれほど難しくないという意味での「安心」で、夫によると、これほど小さな赤ちゃんを育てるというのは、爬虫類飼育におけるベテランがやることではないのか? と言われてしまいました。

 ちょっと無謀だったかもしれませんが、それでもこの小さな赤ちゃんの可愛さはたまりません。

「ぬるっぱ」という、「食べられる緑のカーテン」という触れ込みで売られていた苗を、オオトカゲのリーラやトッケイヤモリのドゥエンデのための餌用コオロギ及び人間の食事用に育てた鉢が、みごとに成長し美しい花を咲かせた。満開時には、庭にほのかに甘く上品かつスパイシーな香りが漂っていた。葉っぱも生で食べられ、癖がなく美味しい。

<龍宮道 オファリング・セレモニー>が、関東と関西にて開催中です。

 

◎龍宮道 オファリング・セレモニー in 関東

 お問合せ:info@aal-takeru.com

 http://blog.aal-takeru.com/?p=46

 

◎龍宮道 オファリング・セレモニー in 関西

 お問合せ:kansaihealingwave@gmail.com

 https://www.facebook.com/events/1627360544192626/(Facebookページ)

 この立派な大蛇(約1歳半)は、ブラジルレインボーボアのオシュマレ。まだまだ大きくなりそうです。

 本日は温浴しました。

 コーンスネークなどのいわゆる「ナミヘビ」と比べると動きがゆったりとしていて、爬虫類飼育初心者の私でも「触れ合い」がたっぷり楽しめる!

 しかしオシュマレ君は、あまりいじくり回すと食べなくなってしまうため、「触れ合い」はほどほどに、と夫から戒められている。

 温浴の日はオシュマレ君とのデート日だ♡

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