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 美佳の新曲『愛の捧げ物』をウェブ上で配信し、購入者1人1人に対し、少し遅れて「バージョンアップ」法が伝授されるという新方式を、実験的に始めたところだ。
 音楽史上、かつてなかった新しい試みといえよう。
 
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帰神ミュージック『愛の捧げもの』高音質ファイル配信ページへ
 
 作品を一方通行で売りっぱなしにするのではなく、<生けるもの>として作者が責任を持ち続けること。
 リスナーの元に届いた1つの作品が、その後も「成長」し続けていって、さらなる奥行きや拡がりを無限に備えてゆくのを、責任をもって手助けすること。
 
 ・・・・そういうことが本当に「可能」であると、美佳は実際に証明してみせたが、バージョンアップ・ガイドを個別に受け取ってそれを素直に試した購入者(購入者、と呼ぶことももはや適切でないと感じる)たちは、すでに幾度も繰り返し聴いてその細部まで充分わかったと思っていた、あのシンプルな曲が内包する複雑精妙な音楽的構造が少しずつ解き明かされてゆく過程に知的興奮を覚えながら、と同時に、これまでまったく知覚することができなかった曲の繊細な細部や複雑なニュアンスまでが、自然に聴き分けられるようになり始めている事実に、大いに驚き、大いに喜んだに違いない。そして、今現在も大いに楽しみつつあることだろう。
 とりわけ美佳の古いファンたちは、思いもかけなかった音楽的トリックまでがそっと隠されていたとわかった時、ある種の衝撃すら感じたのではあるまいか?
 
 ただガイドに従い、目を閉じて注意深く聴くだけ。
 たったそれだけのことで、トータルにして十数分くらいだろうか、その体験を経た後で、聴き慣れた同じ楽曲に耳傾けると、もう本当に、初めて聴くのと同様、否、それ以上の感・動が味わえてしまうのだ。
 これは、「身内の欲目」を冷厳なまでに徹底して排除しながら私自身が繰り返し確かめたことなので、確信をもって述べることができる。
 この新鮮な感・動は、その後も聴けば聴くほど、さらにいや増して深まり拡がってゆくのだから、これは実際「驚くべきこと」ではあるまいか?
 
 バージョンアップ・ガイドを繰り返し用いることで、そのたびごとに「楽曲の成長」が加速される。
 美佳によれば、そのようにして1つの曲をバージョンアップさせることを、さらに何段階も行なうことが可能であるという。
 作者である美佳と同レベルで、1つの作品のあらゆる細部と全体の建築的構造を知り尽くすためには、おそらく一生をかけても足りないのだろう。
 しばしば驚かれることだが、2001年にリリースされたファースト・アルバム『メドゥーサ』以降、これまで発表された数多の帰神ミュージックは、どれもこれも皆、美佳が「独り」で創っている。作曲も、編曲(アレンジ)も、演奏も、歌も、録音も、編集も、何もかもすべて独りでこなしているのだ。
 1つ1つの曲についてより深く知れば知るほど、その創り手に対する畏敬の念が自ずからわき起こってくるのを禁じない。

 購入者という呼び方はもはやふさわしくない、と先に述べたが、それではふさわしい呼び方はと考えてみて、何せ前例のないことゆえ簡単には思いつかないとわかった。
 私たちは最近、美佳が産み出す楽曲を「帰神ミュージック」と呼び始めている。
 美佳によれば、「自分」があれこれ考えたりして作るのではない、と。
 それは逆に「自分」という感覚が希薄になった時に、あたかも超越的なるものから授けられるかのように、忽然と顕われるのだ、と。
 そのあたりの、言説に尽し難い微妙なところについては旧ヒーリング・ネットワークのウェブサイト内(ヒーリング・ディスコース『グノーティ・セアウトン 第7回 音のたまふり』、『たまふり 第6回 ヒーリング・サウンド』)で言及したことがあるから、音楽をこよなく愛する方々や藝術家を志す諸氏は、是非ご一読をお勧めする。
 
 帰神ミュージック。・・・・・神々より授かりし聖なる賜りもの。
 であるならば、それを「物」として売買することはやはりふさわしくなかろう。
 購入する、のではなく、その真価がわかる者が、奉賛し、崇敬する、のが最も正しいのではあるまいか?
 言うまでもなく、そうしたことをいかなる人に対しても強要したりなど一切するつもりはない。 気に入らない人や、わけがわからぬという方に対し、どうのこうの言うつもりなど毛頭ない。
 何ものかについて深く「感じ・動く」ものがある人は、どうぞ先へとお進みなさい、と「門内」へ迎え入れる用意がある、ただそれだけのことだ。
 
 私たちは、人生をかけた命がけの探究の末にたどり着いた「真実」を、芸術的な表現を通じて人類と分かち合おうとしている。
 その真実とは・・・・・、 
 あなた方1人1人の裡に、この上なく神聖なる「本質」が鎮まり坐[ましま]すということ。
 それは、いかなる相対性をも超越して全面的にトータルであり、ゆえに絶対だ。
 高くも低くもなく、大きくも小さくもなく、偉大でも卑小でもない。永遠でもないし一瞬でもない。ただ・・・・絶対なのだ。
 全(一)であり、他に比較するものなき1であるがゆえに、イコール0(空)なる1。
 1=0。
 
 いざや知る 類い稀なるそのわざは 龍宮[いのちのみや]より 賜りしもの
 
 藝術の本質を学びたい、と「自称」藝術家である私の元を訪ねてくる者が最近少なからずいたりするから、まあこの世界が救われる可能性はまだ充分あるのかもしれぬが、しかし、「藝術とは何ぞや?」という人類究極の問いかけの1つに対する答えは、様々な体験のさ中において各自が自らつかみ取らねばならない。
 それを誰かから学べる(かもしれない)などと甘っちょろい期待を抱いているうちは、藝術なんて絶対にわからんよ。
 藝術の本質とは・・・・、
「こうあるべき」というとらわれや思い込みからの解放だ。自由になることだ。
 意識の変容だ。
 価値観や世界観が根本的に変化することだ。
 自分の存在感(自我)が、時間と空間を超越した大いなる実在の裡へと帰一し、溶けてゆくことだ。
 そのような、自己の「存在」そのものと関わる根源的な・・・・魂のレベルにおける変容を決して恐れず、真っ正面から向き合う勇気を持つ者。それが真の藝術家だ。

 

 

DEDICATION

帰神藝術

文/高木一行

『帰神藝術』は、高木一行の『ブログT 第34回 帰神藝術』からの抜粋です。

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